横須賀製鉄所(造船所)

当時の横須賀製鉄所全景を写した写真
横須賀製鉄所全景(明治時代初期)

日本の近代化は、横須賀から始まった

帰国後、小栗は外国奉行や4度の勘定奉行など様々な要職につき、幕府の財政再建・軍事改革を推し進めます。海軍力強化のため44隻の艦船や大量の大砲・銃を諸外国から購入、短期間で東洋一の艦隊を作り上げることに成功し、アメリカで優れた造船技術を目の当たりにしていたことから「日本の近代化のためには大型船に対応した造船所が必要」と幕府に強く訴えました。当時火の車だった財政難から幕府内では反対論が強く、勝海舟をはじめ「船の修理だけをする施設でもいい」という意見もありましたが、日本の将来を見据えた小栗は「造船もできる施設を」と反対を押し切り、旧知の栗本鋤雲らとともにフランスの協力を得て、1865年(慶応元年)横須賀製鉄所の建設に着手します(当初はアメリカの協力を得ることを考えましたが、南北戦争が起こり困難となりました)。横須賀製鉄所建設のため招聘されたフランス人技師ヴェルニーは、後に幕府が崩壊の危機を迎えたときも帰国せず、自分に与えられた使命を最後まで終える決意を示します。

横須賀製鉄所の建設は当時「東洋一の大事業」といわれ、蒸気機関を原動力とする日本最初の近代的な総合工場であり、造船だけでなく様々な機械が造られた他、日本初の技術学校である黌舎も設立され技術者の育成まで行われました。ここで培われた技術や文化は日本全国に広まり、富岡製糸場はじめ近代産業のルーツとなっています(富岡製糸場は横須賀製鉄所のフランス人技術者が設計)。日本で最初にメートル法が使用され、時計による労働時間の管理、西洋式の曜日制度導入により日曜日を休日にする等、大きな影響を与えました。

ドライドック1号の全景写真
1867年(慶応3年)着工~1871年(明治4年)完成。現在も使用されているドライドック1号
スチームハンマーの写真

横須賀製鉄所で使用されていたスチームハンマー(蒸気の圧力で鍛造・加工する機械)。1997年(平成9年)まで稼働

横須賀製鉄所は1871年(明治4年)に「横須賀造船所」と改称。1912年(明治45年)、日露戦争における日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗上野介の子孫・小栗又一を招待し、感謝の意を述べました。「日本海海戦でロシア艦隊を破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」 その際に贈られた「仁義礼智信」の書は、今も小栗上野介の菩提寺である東善寺(群馬県高崎市)の本堂に掲げられています。

「仁儀礼智信」の書

東郷平八郎から小栗の子孫に贈られた「仁儀礼智信」の書(東善寺蔵)

1915年(大正4年)、横須賀海軍工廠(横須賀造船所)創立50周年祝典が開催され、総理大臣大隈重信の代理が「この造船所は幕末に小栗上野介の尽力により…」と語り、『小栗上野介末路事蹟』が配られ、初めて小栗の幕末における業績と非業の死が公式に伝えられました。それまで横須賀造船所は明治新政府が造ったとされていましたが、大隈夫人綾子は小栗の従妹にあたり幼少期に父を亡くして小栗家で育てられたこと、大隈は明治政府に引き継がれた造船所建設の未払い金を工面することに苦労したため、この挨拶となったのです。

祝典のあと、「このまま黙って使っていては申し訳ない」と工廠の職工の間から小栗とヴェルニーの銅像建設募金運動が始まり、貞明皇后の御手許金も加えて朝倉文夫が制作、1922年(大正11年)に除幕されました。以後、毎年横須賀市の恩人として二人の功績を讃えるため顕彰式典が継続されています。 

横須賀製鉄所(造船所)は、太平洋戦争後は在日米軍基地となっており、幕末に造られたドックは艦船の修理に今も現役使用されています。

フランス人技師
ヴェルニー

横須賀市ヴェルニー公園内小栗胸像

外部リンク

横須賀市ホームページ > 横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)

横須賀市ホームページ > ヴェルニー・小栗祭式典