開国後初の公式外交使節
1860年(万延元年)、江戸幕府は、1858年締結の日米修好通商条約※批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣、小栗は目付(監察)としてNo.3の立場で参加しました。一行77名は、米国政府提供のポーハタン号でハワイを経由しサンフランシスコへ到着。咸臨丸は護衛を兼ねサンフランシスコまで随伴後、帰路につきました。
一行は汽車に乗ってパナマ鉄道で大西洋側へ移動後、ロアノウク号に乗り換えワシントンへ上陸。行く先々で日の丸の旗で出迎えられ、一行を一目見ようとする黒山のような人々から大歓迎を受けました。
この訪米に際し、それまで日本の船であることを示す印だった日の丸を国旗として使用するよう使節が幕府へ申請したことを始まりに、今も日の丸が日本の国旗として使用されています。
一行は、ホワイトハウスでブキャナン大統領と謁見、大統領主催の晩さん会で歓待を受けました。
条約批准書の交換後、幕府首脳陣からの密命を帯びた小栗の申入れにより正使新見・副使村垣・勘定組頭森田らとともに、カス国務長官と約半月にわたって通貨問題交渉にあたっています。
ワシントンでは、一行は国会議事堂・海軍造船所・スミソニアン博物館などを見学し、見聞を広めました。小栗が持ち帰り土産として配ったネジのエピソードに見られるように、アメリカで得られた知見は、帰国後小栗が近代化を推し進める上での原動力となりました。
ワシントン出立後、一行はフィラデルフィア造幣局で日米貨幣の分析実検に立ち合った他、ニューヨークではブロードウェイをパレードする等、各地で大きな歓待を受けています。帰路も米国政府提供のナイアガラ号に乗り、喜望峰廻りで地球を一周し帰国、2月に出発し11月に帰国するまで10か月にわたる旅でした。
この遣米使節団は日本にとって開国以来初めての公式外交であり、アメリカにとっても建国以来最初に受け入れた外国使節団ですが、帰国した日本は大老井伊直弼の暗殺後で攘夷熱が過熱しており、その後明治維新以降も遣米使節団の事績は公にされることがありませんでした。
旅の間中、米国政府は使節を国賓として優待し、航海・滞在中にかかった莫大な費用をすべて負担する等、誠意ある対応がなされました。 1918年(大正7年)日米協会初代会長金子堅太郎により、その感謝と日米親善の想いを込めて、『万延元年第一遣米使節日記』が発行されています。
遣米使節団が受けたアメリカ中からの大歓迎や『トミー・ポルカ』はじめアメリカ社会への影響、その後のハワイ移民に繋がったハワイ王国でのカメハメハ4世への謁見等、日米の外交の礎となった史実を知ってもらいたいと思っています。
一行が帰国した当時は、桜田門の事変のあとで鎖国攘夷を叫ぶ声がさかんとなり、ほとんどのものが口を閉ざして米国の進んだ文明を語ろうとしなかった。小栗ひとりはばかることなく米国の進んだ文明の見聞を説き、政治・軍備・商業・産業については外国を模範とすべきだ、と遠慮なく論じて、幕府のものたちを震え上がらせた(福地源一郎「幕末政治家」)
※日米修好通商条約については、歴史の教科書等では日本に不利な不平等条約との説明が一般的ですが、条約締結時は「関税」「領事裁判権」ともに問題なく日本に有利な形で締結されていました(輸入関税:一般品目20%等欧米諸国同士の締結内容と遜色ない内容)。その後、長州が起こした下関戦争の賠償金を背負わされた幕府が支払いに苦渋するのを見透かされ、20%から5%に下げられ、不平等な内容となってしまいました