小栗上野介終焉の地

小栗上野介斬首の地に建つ顕彰慰霊碑

顕彰慰霊碑碑文より

小栗の最期

1867年(慶応3年)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。翌1868年(慶応4年)に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が勃発しました。

慶喜の江戸帰還後、江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張し、決断を避ける慶喜の袴の裾をつかみ、「上様、お待ちくだされ。ご決断を」と訴えると、「無礼者」と慶喜は小栗の手を払い、奥へ消えました。ほどなく小栗は御役御免となります。

この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたといいます。

罷免後、小栗は知行地である上野国群馬郡権田村(現 群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書を提出。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えました。また、渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されますが「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶しています。

権田村への移住後東善寺を仮住まいとし、村人のために水路を整備したり塾を開く構想を立てるなど静かな生活を送っていたところ、新政府軍に捕縛され、翌日一切の取り調べなく烏川の水沼河原で家臣3名とともに斬首されました。斬首される時、何か思い残すことがないかと聞かれた小栗は「私自身には何もないが、母と妻は逃してやったからどうか婦女子には寛典を望む」と述べる等、自身のことよりも家族を心配し穏やかな様子だったといいます。1868年(慶応4年)、享年42歳。幕末の8年間、日本の近代化に努め幕府の最期を支えた人物が、何の取り調べもなく一方的に処断され、烏川の露と消えていきました。幕府側の人物で戦わずして斬られた、ただ一人の人物となります。翌日には養子の又一と家臣3名も同様に取り調べもなく新政府軍に斬首され、小栗の家財道具一式は没収の上競売にかけられ軍資金とされました。

一連の行為を正当化するために流布された「小栗が幕府の御用金を持ちだし新政府に対して戦争を企てた」という根も葉もない噂は、今日まで続く徳川埋蔵金伝説の基となっています。

身重の道子夫人達は、村人の中島三左衛門らに守られ会津まで逃避行を遂げ、第一子である遺児国子を出産。会津から戻った後、国子は三野村利左衛門、彼の死後は大隈重信(妻綾子が小栗の従妹)に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎えて前島密が仲人を務め、小栗家を再興しました。

三野村利左衛門の写真
三野村利左衛門の写真

三野村利左衛門

三井中興の祖。小栗家中間として奉公後、三井家に雇われ幕末の三井の窮地を救う。明治に入り、日本初の民間銀行『三井銀行』を設立。

お首級(くび)迎え

東善寺 小栗主従供養墓

斬首された主従の首は、「朝廷に対し大逆を企て・・」という無実の罪状を書いた高札が建てられ、青竹に刺して道端の土手の上にさらされました。館林で首実検のあと寺院境内に埋められた小栗父子の首級は、1869年(明治2年)に会津から戻った中島三左衛門ら権田村の村民が盗掘して取り返し、東善寺裏山の胴体を埋めた墓に葬られています。

顕彰慰霊碑建立

1932年(昭和7年)、小栗の遺徳をしのび非業の最期を悼む村民によって斬首の地に顕彰慰霊碑が建立されました。碑面には、小栗の義理の甥にあたる蜷川新博士による「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」という碑文が刻まれています。

慰霊碑建立にあたり、この碑文が官軍を貶めるものとして当時の内務省窓口であった警察署から反対されましたが、蜷川新博士が当時の総理大臣田中義一の国際問題顧問をつとめていたことから話をつけ、無事に建立に至りました。

村民は、小栗が近代日本の礎を築いた偉大な先覚者であることを忘れていませんでした。小栗を逆賊とする風潮が支配する中での顕彰慰霊碑の建立であり、歴史から葬られた地域の先人に光を当て、正しい姿を後世に伝えようとしたのです。

小栗の菩提寺である東善寺では毎年5月下旬に小栗まつりを開催し、いまも地域をあげて小栗を顕彰しています。

外部リンク

東善寺ホームページ

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