幕末に金が流出した背景
一般論
日本では金銀比価(金の銀に対する価値)が海外より低かったために、金が安く買われ、海外へ流出した。長年鎖国していたため、幕府は無知で防げなかった。
真の原因
「一分銀」という紙幣のような通貨を、同じ重さのドル銀貨と交換することで日本の通貨価値が1/3となり、海外での換金による利益獲得目的のため、小判(金)が流出した。幕府は交換比率是正のため対策を講じていた。
一分銀とは
江戸時代の貨幣制度は、金銀銅の三貨制度。本位貨幣を金とし、銀貨は重さを量って通用する秤量貨幣(丁銀・豆板銀)が発行されていました。江戸時代後期になると、幕府の財政難により、重さに関わらず4枚で1両と同価値とされた計数貨幣である「一分銀」が発行されるようになりました。
一分銀の実態は、幕府の極印を押すことで重さの3倍の価値を持たせていた紙幣のような貨幣であり、幕府は一分銀1枚につき2枚分の通貨発行益を得ることができたため、幕末には一分銀の発行益が歳入の4割を占めていました。
丁銀・豆板銀(秤量貨幣)
重さを量って使う通貨
一分銀(計数貨幣)
4枚で1両と交換
一分銀を重さで交換できない理由
幕府の極印で重さの3倍の価値をもたせた通貨
→通貨発行益(1枚発行すれば2枚分の利益)を得るために発行。当時幕府歳入の4割を占めていた※
※元禄時代の勘定奉行荻原重秀が財政補てんのために「幕府が発行すれば瓦礫でも貨幣だ」と始めて以降、江戸時代に7度に渡って、幕府は経済財政状況に合わせて貨幣改鋳(貨幣の金銀の含有量・重量を変更すること。改鋳後、新旧貨幣は両替商を通じて交換された)を実施。平和が続いた江戸幕府の信用が貨幣価値の裏付けとなる管理通貨制度になっていた
通貨交換比率決定の経緯
日米和親条約
ドル銀貨を銀塊として購入した場合の国内価格から算出し、1ドル=一分銀1枚と決定。
日米修好通商条約
米国総領事ハリスが「通貨は同じ種類(金は金、銀は銀)を同じ重さで交換するのが国際標準」と主張。幕府側は、「日本の本位貨幣は金であり、一分銀は重さによらず極印により通用する計数貨幣」として1ドル=一分を主張するも「そんなことをすれば贋金が横行するはず」と認められず、同種同量交換の原則により1ドル=一分銀3枚となり、日本の通貨価値が1/3になってしまいました。
幕府の対策
安政二朱銀の発行
外国奉行水野忠徳の策により、同種同量交換できるように貿易用に用意した銀貨。二朱銀2枚で一分銀1枚と交換とすることで、1ドル=一分銀1枚に誘導しようとしましたが、ハリスら外国人領事に「ドルの価値を1/3にする策略」と反対され、わずか22日で通用停止となってしまいました。
金流出の原因
外国商人によるマネーゲーム
ドル銀貨を日本で一分銀から小判に換えて、海外でドル銀貨に換えると元手が3倍に増えたため、一分銀に交換したい外国人が殺到。
国内(貿易港)では…
日本の物が1/3で買われ、海外の物を3倍の価格で買わなければいけない事態に。
アメリカ政府との交渉
幕府首脳陣からの密命を帯びた小栗は、ワシントンでの条約批准書交換後カス国務長官に申入れ、約半月にわたって通貨問題について交渉をしています。
小栗は、「一分銀は楮幣(紙幣のような通貨)」と主張。小判・一分判(小判の1/4の価値の金貨)・二朱銀をフィラデルフィアの造幣局に送って分析させ、一分判は89セントに相当することを確認させました。
この結果を基に、小栗は「ドル銀貨と一分銀の交換は禁止し、一分判を90セントの定価で外国の金銀貨幣と交換する」ことを主張し書簡で申入れましたが、米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至りませんでした。小栗の主張を認めれば、アメリカが日本の国益を大いに害したことを認めることとなり、下手をすると賠償金支払いという問題が生じるため、無視されたものと推測されます。
小栗の主張
- フィラデルフィアの分析結果を元に、日本政府は一分判を90セントの定価で外国の金銀貨幣と交換する
- 新銀貨を作るまでは、一分銀は日本人だけに通用する楮幣とし、日本政府は一分銀を外国銀貨と引替えない
一分判
(小判の1/4の価値の金貨=一分銀と同じ額面価値)
フィラデルフィア造幣局での分析実検
その後使節団が立ち寄ったフィラデルフィアの造幣局でも日米貨幣の分析実検を行いましたが、真の目的における決着は既についていたのです。勘定組頭森田は「このような価値の低い貨幣※を使って我が国の貿易港で物品を買われる際の損は甚だしく、いずれ民衆を困窮させるだろう」と、勘定方従者佐野鼎(後の開成学園創始者)に語って慨嘆しました。
※価値の低い貨幣=ドル銀貨のこと。同じ物を買うのに、日本では一分銀1枚で買っているのに対し、アメリカでは1ドルで買っている。ドル銀貨は一分銀の3倍の重さなのに、一分銀1枚分しか買えない「価値の低い貨幣」を一分銀3枚と交換することを嘆いた
森田の発言
(物に対して)価値が低い通貨と交換しなければいけないので、民衆が困窮してしまう…
万延の改鋳
遣米使節の出発後、ハリスの進言もあり、国内では小判の流出を防ぐため小判の改鋳を実施。天保小判の1/3の大きさの万延小判が発行されることになりました。小判の大きさを1/3にすることで海外への流出を防ぐ一方、国内では天保小判1枚を万延小判3枚と引き換えたため、本位貨幣である金の価値が3倍(=通貨供給量が3倍)となった結果、3倍以上のハイパーインフレ(激しい物価高騰)を引き起こすことになります。その影響を最も受けるのは、価格転嫁の手段をもたない俸給生活者の武士や、商人でない町人であり、その不満が倒幕勢力に繋がってしまいました。
対外政策
1/3の大きさとすることで流出を防ぐ
国内政策
金の量は同じだが1両→3両に
海外への金流出を防ぐため、国内均衡を犠牲にした結果、物価が3倍のハイパーインフレに…
ハリスとともに日本側の主張を認めなかった英国総領事オールコックは、帰国後その著書『大君の都』最終章内の過半を占める「日本の貨幣制度と通貨の問題」内で、日本側の主張が正しかったことを認めています。
『大君の都』内の記載(一部)
「ハリス氏がアメリカとの条約のなかにこの奇妙な条項をはじめてもちこむまでは、そのような外貨の交換の仕方は世界中のどこの国でも行われたことはないし、試みられたこともない。」
「外国人の干渉によって一国の貨幣制度がこれほど突然に、またはげしく混乱したことは、近代においてはその先例を見ない・・通貨の価値は外部からの圧力によって、そして外国商人の利益のために、一挙に三分の一に減じられたのである」
「(大名の)家臣たちは・・ごくわずかの給与を一分銀で受け取っており・・貨幣価値の下落によって全く足らないものになってしまった。この階級の人々の心のなかにかき立てられた不満といらだちは強いもので、そのことは血で記された証拠によってわれわれが今まで見てきた通りである。・・かれら(大名)がこの事情を利用して、家臣たちをさらに外国人に反対するようにあおり立てたこともほぼ否定しえない」
万延の改鋳と『三井中興の祖』三野村利左衛門
小栗家に中間として雇われていたことから、改鋳の情報を事前に得て、天保小判の買占めによって巨利を得る。この情報を三井両替店にも売り込んでおり、三井家には「紀ノ利」と重宝されたという。三井家から勘定奉行小栗との関係を見込まれ、幕府から命ぜられた御用金50万両の減免交渉を任され、返済額を18万両の3年に渡る分納とすることに成功。この功績により、三井家に雇われることとなり、小栗と三井の間のパイプ役として「通勤支配」(取締役)に任命され、三野村利左衛門と改名。1868年(慶応4年)1月、小栗忠順が失脚すると幕府の命運を察し、新政府への資金援助を開始するよう三井組に働きかけ、動乱を乗り切ることに成功する。
小栗と深い繋がりがあり、小栗亡き後その想いを継いで三井銀行を設立。小栗の死後、小栗の妻子を養い、最後まで恩を忘れなかった。